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2008年8月

2008年8月31日 (日)

ピース☆バス☆チバ

■三山地域を訪問

■ピース☆バス☆チバの世界大会報告会

 原水爆禁止2008世界大会 ヒロシマに参加をした、青年たちの報告会が開かれ、参加してきました。

 ピース☆バス☆チバを立ち上げたのが、5年前の2003年。若い人たちと一緒に、広島、長崎に行って被爆者の方の話を直接聞く、資料館を見学する。思いを語り合う。私自身が、このピース☆バス☆チバの取り組みで、本当にかけがいのない仲間と出会い、多くのことを学んできた。

 そして、ピース☆バス☆チバが走り始めて、はじめてバスに乗ることができなかった。でも、ちゃんとバスは、広島に向けて、青年たちを乗せ走った。もうそれだけで、私にとっては感動ものだった。

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 参加した高校生や学生たちの話を聞きながら、涙が出てきそうだった。こうやって、平和への思いが引き継がれ、少しずつ少しずつかもしれないけど、でも確実に一人ひとりの中に、確かな平和への思いが生まれる。なんて、素敵なんだろうweep

 世界から核兵器をなくし、戦争をなくす。無理だとあきらめたら、それでおしまい。高校生が言っていた。「戦争を起こすのが人間なら、止めることができるのも人間」。私は、止める側の人間であり続けたいと思う。

2008年8月30日 (土)

ピース・フェスティバル

■地域訪問

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 畳屋さんでは、お仕事中だったにも関わらず、物価の高騰で商売が大変になっているお話を伺いました。やはり、すべての資材が値上がりしているそうです。しかし、それをすぐ工賃を反映し、値上げできるわけではないので、けっきょく収入が減ると話されていました。「どこも大変だよ」と・・・。

■ピース・フェスティバル

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 毎年、被爆者の実態を伝え、核兵器廃絶を訴える「ピース・フェスティバル」に参加してきました。昨年は、実行委員の一人として運営する側にいましたが、今年は、観客。

 銃弾によって殺された長崎の前・伊藤一長市長の平和宣言をもとに作られた「あきらめないで」を、千葉合唱団のみなさんが歌い開会。被爆2世の方の訴え、はじめて広島に訪れ、原水爆禁止世界大会に参加した青年たちの訴えとづづき

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 映画「夕凪の街 桜の国」の上映。この映画は、2度目でしたが、また泣いてしまいましたweep被爆者の方の心の傷がどれだけ深く、根深いのか、そして、今でも残る偏見・・・テーマはすごく重いのですが、どこか心がすごく温かくなる映画です。

2008年8月29日 (金)

語り合う

■午後から前原西で・・・

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 後援会の方のマンションにおじゃまして、お茶を飲みながら、食糧高騰、投機マネー、後期高齢者医療制度、雇用問題、日本共産党のことから、趣味のことまで、ざっくばらんに語らいました。はじめて、こういう集まりに参加したという方から「良かったわ。応援するわね」と言われ、すごく励まされ、嬉しかったです。

 終わると、突然の雷雨thunderrain

■夜は「後期高齢者医療制度を考える」

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 船橋の市場支部のみなさんの企画で、船橋ふたわ診療所の高橋稔所長が、後期高齢者医療制度の仕組みや、そのねらいなどについて話しました。私も、丸山慎一県議、金沢和子市議とともに、参加し、一緒に皆さんと懇談させていただきました。

 ここでも、はじめて参加してくださった方が。その方は「政治が本当によくわからなかった。いきあたりバッタリでなにやってるんだと思っていた。志位さんの記念講演を勧められたて読んでみて、なんとなくわかった」と。

 参加されたみなさんの共通の思いは、やっぱり「医療や福祉にお金をかけて欲しい」でした。私は「ぜひ、マイケル・ムーア監督の映画「シッコ」を見てください。9月26日二和公民館で上映会もあるようです」と紹介しました。

千葉労働局へ

 千葉労働局 労働基準部 監督課に丸山慎一県議、小倉忠平さん(比例・千葉2区)と一緒に行ってきました。

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 この間、西船橋駅での宣伝、対話の中で、昨年11月、市川の倉庫で21歳の女性がフォークリフトによる高所作業中に、3・8メートルの高さから転落し、6日後に亡くなったという事故が起こっていたことが明らかになりました。その事故についてや、千葉県全体の状況について聞いてきました。

 個別の案件については、話せないの一辺倒でしたが、やはり日雇い派遣など、非正規の雇用が増えたこによる事故は増えていること。いまある法律は、そもそも派遣が、特殊な技能のみに限られていた時につくられた物で、今の状況は想定外だということも、はっきりしました。

2008年8月28日 (木)

丸山へ

 岩井友子市議と地域を宣伝でまわる予定でしたが、あいにく雨が降り出し、予定を変更して、お世話になっている後援会の方々のお宅に、ご挨拶に伺いました。

 いろいろなお話を伺うことができました。「食糧問題は、私は20年前からずーと大変なことだって言っていたのよ。地で取れた物を食べるのが、一番良いのよね。わざわざ輸入して、日本では米つくるななんておかしいのよ」。

 息子さんがヘルパーとして働いていてる話しから、「介護職が足らないって、なんで海外から人を連れてくるのかしらね。給料が安いから、思いがあっても、暮らしていけず辞めているんだから、ちゃんと介護報酬をあげれば良いだけじゃない」

 もう、ホントその通りです。

 日本の国の経済のあり方、食糧も、人も、なんでも他の国に頼っていて良い訳ないと思います。本当の意味で、どうしたら国内の経済がまわっていくのか、よーく考える必要があると思います。

2008年8月27日 (水)

法典へ

 朝から千葉で会議です。午後は、法典地域の「日本共産党を語る会」で、仁木西部地区委員長、岩井友子市議が話をしていました。

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 私もそこにかけつけ、挨拶させていただきました。

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 はじめて参加をしてくださった方もいて、年金暮らしで、生活が大変になったことを話されていました。また、別の方は、年金だけでは暮らしていけないから、ガソリンスタンドで働き始めたという方も。

2008年8月26日 (火)

安心して住み続けられるマンション

 「安心して住み続けられるマンションをめざして 分譲マンション支援施策の充実を求める要望書」を市に提出しました。

 関根和子市議、渡辺ゆう子市議、金沢和子市議、地域のマンションにお住まいのみなさんと一緒に、実態を話しながら、耐震補強や、相談窓口などの設置について要望しました。

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 船橋市内で、マンションにお住まいの方は2割。「耐震診断が進まない原因の一つに、やはり耐震補強への助成がないことが足かせになっているのではないか」「管理組合の役員が変わると、問題が起こったときに、どこに相談したら良いのか困る。専門の知識をもった人を市に配置して欲しい」「マンションが一つ建つと、街が一つできるようなもの。マンションが地域に与える影響は大きい。一方で、どんどん建設を許可しながら、後は責任を持たないというのは、いかがなものか」などなど。

 マンションに住んでいる方も、その周りに住んでいる方も、お互いが気持ちよく、住み続けられる街づくりを、長い視野で考えていく必要があると思います。

2008年8月24日 (日)

二宮飯山満→中山へ

 日本共産党の二宮飯山満支部主催で「斉藤和子を囲んで“そうめん祭り”これから日本はどうなるの?」という面白い企画が行われました。

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 みんなで、そうめんや揚げたての天ぷら、いなり寿司に、旬の梨を食べながら、語り合いました。原油の高騰で、資材があがり商売が大変になっていること、「後期高齢者医療制度など、この間の負担増で年金が10万円ぐらい減った」「もらえる年金が8万から、4万に。4万円で生活できるかね(怒)」と。「共産党の議席を増やすしかないね!!」

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 その後、中山地域の後援会が企画した消費税の学習会に参加しました。「消費税をなくす船橋の会」事務局長の川俣さんが講師。私もあいさつしました。

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 「国も財政難だから、消費税増税はしかたがないんじゃない」という話が出たときに、「今まで私たちが払っていた消費税は、どこにいっちゃったのかしらね?」と、日常のちょっとした会話で広めていくことが大事ですよね。と、なんたって、私たちがこの20年間に納めてきた消費税は、総額で188兆円。一方、同じ期間に大企業に減税してきた法人税の額は、159兆円。軍事費の増額に20兆円。このカラクリを変えない限り、いくら消費税を上げたって、福祉や教育がよくなるわけない!ってことですよね。って。

2008年8月23日 (土)

納涼会にお祭りに

 お滝後援会の納涼会に丸山慎一県議と参加し、あいさつしました。踊りあり、歌あり、クイズありと、非常に多彩でユニークな楽しいひと時を過ごすことができました。

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 ビックリしたのは、「どうしてもこの会に参加したくて、入院する時期を延ばしてもらったの。昔から軍人と宗教家が口を出したら政治は終わりって言うんだから、あなた、がんばりなさいよ。国会に行くのよ!がんばって」と、80代の女性の方と固い握手をしました。その方は、最後に「みんな、がんばってるのよ。そういう人たちに支えられていることを忘れないで」と。「はい!!」

 その通りです。この間、「がんばって!」と同時に、「がんばってじゃないわね。がんばろうね!ね。私たちも、がんばるから」と、言われることが多くなったように感じます。そういうみなさんと心一つに、ゼッタイ日本共産党の議席を勝ち取りたいです。

 その後、船橋革新懇の「地球温暖化問題の学習会」に参加

moon1夜は、船橋二和病院の「納涼まつり」に参加してきました。たくさんの出店や、地域の踊りの会のみなさんが、輪になって盆踊りと、非常に盛り上がっていました。医局のみなさん出店の「ワンタン」おいしかったです。最後は、土砂降りの雨rainになってしまいました。

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2008年8月22日 (金)

来年度予算要望交渉

■環境省からの聞き取り

 衆議院第一議員会館の7Fにある、志位和夫委員長の部屋で、環境省から三番瀬のラムサール条約登録に関する聞き取りが行われ、丸山慎一県議、岡田幸子県議、渡辺ゆう子船橋市議、入沢俊行習志野市議、谷藤利子市川市議、元木美奈子浦安市議と共に参加しました。

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 ラムサール条約の登録には、国際的に重要な湿地であることや、関係者の了解が必要です。三番瀬には、水鳥が2万羽以上、重要な種がいることも調査で明らかになっています。

 1600haある三番瀬は、船橋市と市川市にまたがっています。もちろん全体が登録できれば良いのですが、まずは、合意の取れた船橋市側だけでも登録してはどうか?手続き上問題があるのか?などの聞き取りを行いました。

 環境省側は、部分的な登録は考えていないということでしたが、「関係者の理解が得られるようなら、検討することになるでしょう」と答えました。

■国への来年度予算要望交渉

 午後からは、千葉県内の地方議員のみなさんと一緒に、原油高、国民健康保険制度、地域医療、後期高齢者医療制度についての4点で、農林水産省と、厚生労働省に要望書を渡し、地域のみなさんの実態をつたえ、支援策や、制度の改善を求めました。

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 私は、国民健康保険制度と後期高齢者医療制度の要請に参加しました。国保に対する国の負担が減らされたことによって、保険料が上がり、払いたくても払えない状況が広がっていること。収納率が悪いと、ペナルティー(八街市では、平成15年~18年の合計で3億1000万円)が課せられ、家の差し押さえまでしている実態。職員もとりたてやになり、病気になるような状況まで来ていることを伝え、改善を求めました。

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 後期高齢者医療制度では、私も署名に協力してくださった方の声や、生きる希望を奪っている実態。医療や福祉にお金をかけないという枠の中で、制度を考えるのではなく、国民の命と健康をどうしたら守れるのか、という角度から考えて欲しい。若い人たちの中でも、将来への不安が広がり、日本の社会全体にとってマイナスになると伝えました。

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 要請に参加をしていた小池晃参議院議員から「後期高齢者医療制度は批判も大きく、厚労省も話を聞くというスタンスで望んでいた」「制度を改善してと言っていたが、根本的な制度の考え方が間違っているんだから、改善してどうこうなるものではなく、廃止しかない」「いま国会は本当にゆきづまっている。今度の国会は、制度を廃止させることと、社会保障にお金を使え!という大きなたたかいをしていきたいと思う」と、話がありました。

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最後にパシャリcamera左から、はたの君枝元参議院議員、小池晃参議院議員、小倉忠平さん(南関東比例・千葉2区)、私斉藤和子です。

■船橋の農家の女性のみなさんと

 今日最後は、地元船橋の農家のおかあちゃんたちと、夕飯を食べながら懇談しました。小さいことからお世話になっている皆さんで、「和ちゃんがねぇ~」と。

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 後期高齢者医療制度、老人医療費の助成についてや、「にんじんの値だけは良かったけど、野菜の値が下がっている」と農業の話し、「日本共産党はなんで、政党助成金もらわないの?」「共産党って、悪いイメージがあるわよ」と、まさに「日本共産党を語る会」でした。

2008年8月21日 (木)

お盆明け

 お盆も明け、さっそく千葉県内の日本共産党の地方議員と党内の職員が集まって会議が開かれました。ちょうど、今日の「しんぶん赤旗」に載った8月3日~11日に伊豆で行われた「特別党学校」の感想と、いよいよ総選挙!と決意を発言しました。

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 午後は、「千葉県日本共産党後援会 夏季研修会」に参加し、はたの君枝元参議院議員、加藤英雄さん(南関東比例・千葉8区)とともに、挨拶しました。

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 はたのさんと、加藤さんは、昨日、勝浦やいすみの漁協、酪農家を訪れ、原油や飼料の高騰がどう影響しているのか、直接お話を伺いにいったそうです。どこでも、経営がなりたたない状況、国の対策があまりにも現実に合っていないこと、どう廃業するかばかり考えていることなどの声が出されたそうです。懇談の中では、「あんまりアメリカのまねばかりじゃなく、日本の伝統を守る方に行った方が良いのでは」「搾取もマネーゲームも限界に来ていますよ」など、国のあり方そのものの話になったそうです。

はたの君枝さんのホームページ

2008年8月17日 (日)

闇の子供たち

 『闇の子供たち』という映画を見てきました。

 江口洋介、宮崎あおい、妻夫木聡、佐藤浩市と、そうそうたる俳優人が主演しているにも関わらず、あまり宣伝はされず、しかも上映している映画館は、全国で9つ。とにかく、見に行くべきだと思ったので、渋谷まで行ってきました。

 舞台はタイ。とにかく言葉にするのが難しい映画です。資本主義社会というのは、すべてが商品になり、売買される社会にならざるをえないというが、まさに人間が、しかも子どもたちが、性的対象のおもちゃとして、臓器移植のための臓器摘出のために・・・闇に葬りさられ、その闇の中で、儲ける人間がいて、欲望を充たす人間がいる・・・が、そこにもまた闇がある。

 この映画は、扱い方を間違えたら、とんでもないことになるテーマを扱っているんだと、パンフレットを読んで思いました。見る前は、なんでもっとこの映画を上映しないのだろうかと思いましたが、問題は、そう単純ではないと気づかされました。

 見るものに、見る意志と覚悟を求め、見るものの人間性が問われる映画のように感じました。阪本順治監督の覚悟と勇気は、言葉になりません。そして、この映画に主演した俳優の方々、スタッフも。

2008年8月16日 (土)

斉藤和子はどんな人

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●日本共産党に入党したきっかけは?

 私は船橋の農家に生まれ育ちました。両親が党員だったこともあり、日本共産党は身近でした。

 18才になってちょうど2ヶ月目に国民大集会があり、そこで誘われました。でも、断るつもりでした。党員になるイメージがもてなかったし、いま話題になっている『蟹工船』の作者、小林多喜二のような生き方は出来ないと思っていました。

●「小林多喜二」ですか?

 民青同盟の高校生班で「小林多喜二」の映画の上映会を、地域の方と一緒にとりくみました。戦争反対、主権在民を主張し、小説を書いただけで、時の政府に逮捕される。さらに、宙吊りにされアイスピックで太ももをさされる拷問シーンなどが、リアルに描かれていました。それでも、多喜二は信念を貫き虐殺されます。強烈でした。

 でも、けっきょく、日本共産党の主張していることは、間違っているとは思っていなかったし…で、入党しました。

●「生き方」を考えたの?

 やはり映画「小林多喜二」は、真剣に自分がこの社会の中で、どう生きるのかを考えるきっかけになりました。上映会後の感想交流で「いまは、戦争反対と言っても殺されることはない。でも、身近な問題として、目の前でいじめられている子がいた時に、見て見ぬふりをするのか?それとも、もしかしたら自分がいじめの標的になるかもしれない、それでも“やめろ”と言える人間になるのか…」と話しました。

 実は、最近母とその話をしたら、高校生の時、私は空手だか合気道だかを習いたいと言ったそうです。理由は、クラスの子をいじめてる不良をやっつけたいからと。それに対して両親は「暴力で返したらなんにもならない。力のないお前が言うことに意味があるんだ」と。いま考えても、すごい返答だと思います。

●両親は入党したことを何て?

 それが、なぜか、党員である両親には入党したことを言えなかったんです。たぶん、自信がなかったんでしょうね。いろんな意味で…。

●民青同盟では、どんな活動をしたの?

 キャンプ(↓写真)に行ったり、被爆者の話を聞いたり、勉強したり。印象に残っているのは、焼肉を食べながら、「労働と労働力の違い」について一生懸命、例え話をするんだけど、すればするほど混乱する。でも、すごく楽しかったことを覚えています。

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 あとは、班会に大学生が来てくれて「科学的社会主義のものの見方、考え方」を学習しました。唯物論とか、弁証法とか、「物事は、必ず原因がある。表面的にとらえるのではなく、それが現れる原因や背景をみることが大事」「どんなものでも、変化し発展する。個々ばらばらではなく、関連しあっている」。これは衝撃でした。

●「ものの見方、考え方」に衝撃!?

 薬園台高校の園芸科は、茶髪や短ラン、ぶかぶかのズボンをはく、いわゆる不良がいました。私は「校則違反するなら、自分たちで校則を変えれば良いじゃないか」と、批判的に彼らを見ていました。でも、この「ものの見方、考え方」を学んで、「私は、なんて人を表面的に見ていたんだ」と気づかされました。

S_2・・・農業実習中

 特に園芸科は、教室の勉強だけではなく、一緒に農作業をします。肥料や、重たい物を運ぼうと思えば、いわゆる不良くんも「もってやるよ」と手を差し伸べてくれる。暑い中、一緒に収穫したトマトを「おいしいよね」と言いながら食べ、歓びを共有する。そういう人間の内面に触れる機会が多かったから、余計に「なんて大事なことを見落としていたんだ」と、気づかされたんだと思います。

●どんな親子関係?

 よくわが家は小さい頃から夜、討論会になりました。「ここに一つの湯飲みがある。上から見れば○。でも、横からみたら長方形」とか、「3本煙突が並んでいても、角度によっては1本しか見えない」とか、目線や見方によって物事はまったくかわる。いろんな角度から見ることが大事なんだって。つまり、そのたわいもないと思っていた会話が、実はすごく大事で、その理論的な裏づけを、民青で学んだ感じでした。

●印象的なことは?

 戦後50年の大学生の時、「へいわのわ」という全国学生平和企画の実行委員長をやりました。それを東京革新懇の企画で報告しました。その前日、原稿を父に見せたら「なんで、こんなに上から教えてやろうみたいな、偉そうな物言いをするんだ」と言われ、とにかく、悔しくて、徹夜で直しました。
 両親は「自分たちの“子ども”ではなく、一人の人間として接しよう」と、よく話し合っていたそうです。だから、「なんで」「どうして」「どうしたい?」と、よく意志を確認されました。まぁ、とにかくよく話す家族だと思います。

●大学では、どんなことを?

 農獣医と言うと「獣医さんなの?」とよく聞かれますが、私は、“農”学の方で食品経済学科です。

 卒論では「惣菜産業における野菜の原料調達」を調べ、特にコンビニの弁当などは「必要な時に必要な量を、使い勝手の良い食材で」が求められ、結局、安価な海外からの冷凍野菜が多く使われていました。まとめで、24時間のコンビニの惣菜など、便利になった背景で、労働強化がされ、家族で食卓を囲むことが奪われ、「本当の豊かさとは、何か」が問われている。と書いたら、教授から、論理が飛躍していると言われましたが、ぶじ卒業することができました。

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●大学卒業後は?

 県立清水高校で、食品化学科の常勤講師として2年勤めました。そば打ちしたり、豆腐作ったり、生徒と一緒になって開墾したり、大変でしたけど、楽しかったです。

 それだけに、教員採用が一人枠で3度不合格。一方で、日本共産党の職員として働かないかと言われていたので、とにかく迷いました。

●党職員になぜなろうと?

 決断したきっかけは、その当時、西部地区委員長だった浦さんの言葉でした。「学ぶとは胸に誠実を刻むこと、教えるとは共に希望を語ること」(ルイ・アラゴン)。

 確かに、私が接してきた生徒たちは、どちらかといえば勉強が苦手で、漢字も読めない、かけ算もできない子たちがいました。小学校低学年で勉強について行けなくなると、じっと耐え時が過ぎるのを待つしかない。

 「わからないのも個性」とか、「3割のエリートと、モノを言わない労働者」と言った、教育行政のもとで、傷つけられてきた生徒たちと格闘しただけに、「共に学びあい、希望を語りあえる教育にしたい」という思いはありました。そのためには、競争をあおり、一人ひとりを大事にしない教育行政、政治を変えるしかない、と。

●党職員になってどう?

 辞めたいと何度も思いました。それでも、続いてきたのは、仲間たちのおかげだと思います。特に、私にとって「ピース☆バス☆チバ」の活動は、大きかったです。

 被爆者の方の話を聞く。広島、長崎にバスで行く。資料館を見学し、世界大会に参加する。行きと帰りのバスの空気は変わります。一体感と、「一人ひとりは微力だけど、けっして無力じゃない」というエネルギーが、みんなの感想からほとばしります。それが、私に力をくれました。

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●平和が原点ですか?

 やはり、被爆者の方が、さまざまな差別や偏見を受けながらも、ケロイドの跡を見せ、自らの思い出したくもない体験を語り、核廃絶を訴えてきた。その一人ひとりの声と行動があったからこそ、いま核兵器廃絶が世界の流れに広がってきた。そして、6年前、私たちが津田沼駅で、いきなり折り紙を差し出し「あなたの平和の思いを折り鶴へ」と呼びかけた「折り鶴宣伝」は、いま全国に広がり発展しています。たぶん、これらの経験があって「微力だからこそ、勇気をもって声をあげることが大事なんだ」と、候補者を決意できたんだと思います。

●決意を一言

 候補者になって8ヶ月、試行錯誤の日々ですが、本当に多くの方に励まされ、支えてもらっています。いま多くの方が、何か新しい変化を求めているように感じます。その期待に応えられるように、がんばりたいです。そして、絶対に忘れたくないのは、政治を語るとき、常にそこに人がいることを感じられるようにしたいです。

2008年8月15日 (金)

終戦の日宣伝

 10時~船橋駅北口で「8・15平和リレートーク」に参加をしました。年金者組合の方、船橋革新懇の方々の取り組みで、毎年行われ、次々とマイクを握り、自らの体験と、平和への思いを訴えます。まわりでは、チラシを配布しながら、「二度と戦争はしない、武器は持たないと決めた憲法9条」を改定させないための署名を集めました。

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 11時~は、一緒にリレートークに参加していた、丸山慎一県議、金沢和子市議、渡辺ゆう子市議とともに、宣伝カーに乗り込み、船橋市内を回りました。西船橋駅、下総中山駅、船橋駅南口、東船橋駅、津田沼駅、前原駅、習志野駅、JUJUきたなら、の8ヶ所で訴えました。

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 この6年間、広島、長崎に青年たちと一緒にバスを走らせ、直接、被爆者の方の話を聞いてきたこと。「被爆体験は、1945年8月6日に原爆を落とされたその日だけではありません。私が死ぬまでが被爆体験です」と語る被爆者の思い。

 生き残った被爆者たちは、「水をください。水をください」と助けを求める人に何もできなかったこと、火の手から肉親を助けられなかった自らを責め、苦しんでいること。戦後も、差別と偏見によって、結婚が破談になったり、目に見えない放射能によって、いつ命が奪われるかと、常におびえていること。

 日本が果たすべき国際貢献は、イラクやアフガニスタンの何の罪もない子どもたちを空爆によって殺す、アメリカの戦闘機への給油に税金を出すことではなく。二度と戦争はしない、武器も軍隊も持たないと決めた憲法9条を息づかせ、世界で広がっている、問題は武力ではなく話し合いで解決する流れを、さらに大きくすることだと思うと訴えました。

 私はいつも思うんです。「攻められたらどうする。そのためには、軍隊が必要」「日本も戦場にいかなくて良いのか」という話を聞くたびに、「誰が兵隊になり、戦場に行くのか?」と。行くのは、若い人たちであり、子どもたちです。そういう若い人や、子どもたちの命を犠牲にしてまで、守られる命があって良いのか!?と。

 『誰かの命の犠牲の上に、守られる命』があって良いとは、私は思わないのです。

2008年8月14日 (木)

韓国・平和の旅⑫-最後に

 ドイツのヴァイツゼッカー大統領演説に

「罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関わり合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。

 心に刻みつづけることがなぜかくも重要であるかを理解するため、老幼たがいに助け合わねばなりません。また助け合えるのであります。

 問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。」

「かつて敵側だった人々が和睦しようという気になるには、どれほど自分に打ち克たねばならなかったか――このことを忘れて5月8日を思い浮かべることはわれわれには許されません。ワルシャワのゲットで、そしてチェコのリジィツェ村で虐殺された犠牲者たち――われわれは本当にその親族の気持ちになれるものでありましょうか。

 ロッテルダムやロンドンの市民にとっても、どんなに困難なことだったでありましょう。そのためには、ドイツ人が二度と再び暴力で敗北に修正を加えることはない、という確信がしだいに深まっていく必要がありました。」

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 今の自民党を中心とする日本政府の姿勢、憲法9条を変えようとする動きを見ていると、この言葉の重みをずしりと感じる。そして、韓国に行き、見聞ききし、韓国の人々と触れ合ったからこそ、この言葉の意味を理解できるそんな気がする。

 原爆被爆という被害者としての日本人。と、アジア2000万人の命を奪った、加害者としての日本人。この両方の日本人が抱える、問題はとてつもなく大きい。

  「二度と誰にもこんな思いはさせたくない」「自分たちが生きている間に核兵器をなくしたい」と語る被爆者たち、反戦・平和を願う世界中の人々の思いを実現するためには、「原爆が落ちてあの戦争が終わった。原爆が落ちて良かった」と思っている、少なくないアジアをはじめとした人々とも手を取り合う必要がある。

 そのために、いま日本がやらなければならないことは、「原爆が落とされても仕方なかった」と正当化させてしまうような行動をとってはいけない。あの侵略戦争を正当化し、美化するような動きを許してはいけない。二度と戦争はしない、武力は持たないと決めた“憲法9条”を変えるなんてことを、許してはいけないんだ、と強く思った。

 そして、本当の意味で加害者、侵略者であったことを認め、受け入れ、「二度とこんな過ちはおかさない」と反省し、国民が誓い合ったとき、日本は、唯一の被爆国として本当の意味での役割が発揮できるのではないかと思った。

 日本人として生まれ、日本人として生きる私が、日本という国がたどってきた過去と向き合い、そこから、私は何を導き出すのか。そして、これから、どう生きるのかが、問われている気がする。

 私は、被爆者にも、従軍「慰安婦」にも、戦争体験者にもなりたくない!そして、私の子や孫にも・・・

 いま、被爆者の方も、ハルモニも、思い出したくもない体験を、声をしぼり、心をしぼって語ってくれている。「もう誰にも、私のような思いをさせたくない!」この思いが結実した、憲法が活かされる社会をつくりたい。

 そのために、いま私に出来ることは何なのか、真剣に考え、生きたいと思う。

■最後に・・・・・

 この報告を仕上げるのに、約5ヶ月かかりました。正直、資料も写真も見たくない、思い出したくないと、向き合うことができない時期が多々ありました。それだけ、韓国平和の旅は、私に大きな衝撃を与えたのだと思います。その思いが少しでも伝わったら幸いです。

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06年8月 斉藤 和子

2008年8月13日 (水)

韓国・平和の旅⑪-まとめ

■韓国の旅を終えて

 韓国に行って本当によかった。

 日本人として生きることの意味、重さを感じた。

 60年前に終わった戦争は、60年後の今も、様々な意味で続いているんだと実感させられた。よく「“いじめ”た側は忘れても、“いじめ”られた側は忘れないものだ」と、そんな話がよくある。戦争を“いじめ”にたとえるのは、どうかとも思うが、独立記念館で見た、何百本もの韓国国旗。西大門刑務所にかけられた大きな韓国国旗、高々とこぶしを突き上げた像などなど、韓国で見た一つ一つに、「もう二度と誰からも支配されない」という強い意志と、誇り、そして侵略への怒りが伝わってきた。侵略された側の屈辱、怒りを、私ははじめて肌で感じたのかもしれない。

 日本軍「慰安婦」歴史館の中に作られた、慰安所、2畳ほどの小さな部屋、薄暗い部屋の中にある、木のベットと、アルミの洗面器…入り口から部屋を一回り見回した。よく考えると、けっきょく私は、その慰安所の部屋に入らなかった。無意識のうちに、私はその部屋に入ることを拒否していたのだろう。

 西大門刑務所でも、人一人が立ってやっと入れる拷問の箱が再現されていたり、拷問の様子が蝋人形で再現されているのを見ながら、私は、感じ、考えるのをやめていた。たぶん、自分の目の前に展示されている内容を、自分のこととして受け止め、想像したら、その場にいることは絶対に出来なかったからだろう。一生懸命、客観的に、感じないように、感じないように見ていた。

 拷問を受けた人たちは、日本軍の侵略に反対し、韓国の独立のためにたたかった人たちだ。まさに、日本の反戦、平和を掲げてたたかった日本共産党員に通じる。しかし、日本人が日本人にした拷問、虐殺は、怒りになる。だが、日本人が韓国人、別の民族にした行為を目の前で見せられたとき、怒りにはならない複雑な思いになった。

 “追悼の碑”の前で手を合わせたとき、私は心の中で「ごめんなさい」とつぶやいていた。なぜか涙がでてきた。息苦しくて、言葉を失った。出てくるのはため息だけだった。

 たぶん、日本が60年前の戦争を、侵略戦争と認め、きちんと謝罪し、反省し、未来に向かっていたら、同じ展示を見ても、もう少し違った感じ方をしていたように思う。

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 ちょうど、私たちが見学に行ったとき、小学校にあがる前の子どもたちが、先生と一緒に列を作ってこの刑務所の中に入って行った。

 その後を追うように、私たちも入り、展示を見ながら、あの子どもたちが、これを見たのかと思うと、ぞっとして、いたたまれなくなった。

 日本人が自らやった行為を知ることなく生活している日本人と、韓国国民がかつて受けた行為を生生しく知らされている韓国人。ここには、大きな隔たりがある。

 私たちは、地下鉄の中でも、食堂でも、なぜか言葉数が少なかった。それは意識してなのか、どうかはよくわからない。でも、過去の戦争のこと、この国の人たちにした侵略行為を知れば知るほど、日本語を話せなくなっていった。

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 韓国ではじめて出会ったチャンさんは、私たちに「過去の歴史を知っていますか?」と聞いてきた。

 私は「知っています」と答えた。しかし、私は、知らなかった。

 バスの中でたまたま座ったおばあちゃんに、「日本人?」と日本語で話しかけられた時、私は、ここでもいたたまれなくなった。なぜ、このおばあちゃんが日本語を話せるのか。そう考えただけでも、苦しくなる。

 くったくのない笑顔で、私たちを独立記念館の前で見送ってくれたおばあちゃん。ガイドブックを開き、きょろきょろしていると、すぐ誰かが話かけてくれる。どうして、みんなこんなに良い人たちなのか、なんでこんなにやさしいのか。日本人なのに、あんなひどいことをした日本人なのに・・・・・・。

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 日本軍「慰安婦」の水曜集会でも、みんながコールをしているのを、そっと見ていることしか出来なかった。一緒に、大きな声をあげることが出来なかった。すごく複雑な気持ちに、ここでもなった。

 私たちに言われていること、日本政府を変えられるのは、私たち日本人。そう、考えると、その責任の重さを、感じずにはいられなかった。

つづく・・・

2008年8月12日 (火)

韓国・平和の旅⑩-西大門刑務所歴史館

2006年3月29日(水)

6:20 午前便で帰る2人がホテルを出発

7:00 ホテルを出て 南山公園・南大門市場をウロウロ 

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9:30 西大門刑務所 見学

その後、仁寺洞(インサドン)をウロウロ

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12:00 日本大使館前へ 「慰安婦」の水曜集会へ

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お昼を食べて

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14:30 ホテルに戻る お迎え ソウルを出発

21:00 成田到着

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西大門刑務所歴史館は・・・(日本語パンフに)

「祖国の独立のために、日帝の侵略に立ち向かって戦った末に、亡くなられた愛国烈士を偲び、烈士の自主独立の精神を振り返る、生きた歴史教育の場」

「我が民族は、日本帝国による強制占領という痛みを抱えてきました。この時期は民族のプライドが傷つけられ、民族自らの発展が中断されるなど、苦難の歴史でありました。それと同時に、我々には歴史的な現実に屈したり、妥協したりせず、民族の独立の為の闘争の歴史があり、そのおかげで今の私たちが存在し得るのです。西大門刑務所歴史館はこのような歴史を引き継ぐための教育の場として開館しました。明日を担う若者たちはもちろん全国民が、国のために命を捧げた烈士たちの志を偲び、屈辱的な過去の歴史を克服するために、国を愛し民族を愛する志を学ぶ場となりますことを祈念します。」

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 歴史館に入り、地下に日本軍が韓国人におこなった拷問の場面が蝋人形で再現されていた。その周りの壁には、ハングル語で落書きがいっぱいされていた。何が書いてあるのかは、わからないが、怒りが伝わってくる。
 独房に閉じ込める。水をかけ、竹刀でめった打ちする。人一人立ってやっとの木箱に人を立たせ、数時間で足が内出血。当時使われていた獄舎、ハンセン病舎、死刑場を見た。言葉がなかった。

 外に出て、太陽の光を浴びたとき、こんなにも太陽の光は、まぶしかったのかと思った。

 そして、獄舎にかけられている、とにかく大きな韓国国旗が目に飛び込んだ。

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 私は、まったくわかってなかったと思い知らされた。

 民族が支配されることの屈辱、それへの怒り・・・日本は、本当の意味で侵略され支配された国民の思い、怒りを知らずにいるのではないかと思った。

日本軍「慰安婦」の水曜集会は、1992年1月8日の正午から、毎週天候に関係なく「7つの要求事項」をかかげて、日本大使館前でおこなわれている。すでに集会は700回を超えた。

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1、日本政府は日本軍「慰安婦」強制連行の事実を認めよ!
2、これに対して公式に謝罪をせよ!
3、蛮行の全貌を明らかにせよ!
4、犠牲者たちのために慰霊碑を建てよ!
5、生存者や遺族に対し補償せよ!
6、このような過去が繰り返されないために、歴史教育の現場でこの事実を教え続けよ!
7、責任者を処罰せよ!

つづく・・・

2008年8月11日 (月)

韓国・平和の旅⑨-「慰安婦」

■ハルモニの手・・・

 話しを聞き終え、私たちは、ハルモニと一緒に写真を撮った。

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 ハルモニと握手をした時、こんなにちっちゃい手・・・なんだが、申し訳なくて申し訳なくて、涙が出てきた。

 その後、一兵さんの案内で、歴史観を見学した。一兵さんの話しを聞いて、はっとさせられたのは、「従軍慰安婦」という言葉。「従軍」というと、自らの意思で従ったみたいだが、どの人もだまされたり、家族から売られたりしている。「慰安婦」という言葉も、ここを訪れた中学生が、「自分はここに来るまで、部活のマネージャーみたいに、軍人さんの食事や洗濯などお世話をする人だと思っていた」と話したと聞き。言葉は恐ろしいと思った。国連では「従軍慰安婦」のことを「性奴隷」と言っている。しかし、ハルモニたちに「性奴隷」とは言いづらいため、(かっこつきの)「慰安婦」と記してあると。

 慰安所を再現した、薄暗い二畳ほどの部屋には、名前の札がかかっていた。その名前はみな、日本人名だった。そして、性病の検査結果の表には、年齢が書かれ、「可」「不 淋病」「月経」などと書かれている。物の検品のように、一覧表にされ、こんな侮辱的なことがあるだろうかと思った。

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 ここに暮らしているハルモニたちの思いを、まったく無視して「従軍慰安婦はなかった」「軍は関与していなかった」と、なぜ日本政府は言えるのだろうか。彼女たちが嘘をついているとでも言うのだろうか。「パスポート、パスポートをちょうだい!」「私は絶対に日本に行くの!」と、病院のベットの上で、最後まで訴え続けて亡くなったハルモニの映像をビデオで見ながら、この人たちの思いを無にしちゃいけない。二度とこんな思いをする人を作っちゃいけない。そのためにも、ちゃんと事実を明らかにし、認め、次の世代に伝えていかなきゃいけない。なんとも言えない、ひんやりとした重苦しい空気の中で、そんな思いを強くした。

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*ナヌムの家には、ハルモニたちの思いを代弁するモニュメントがたくさんあります。

2008年8月10日 (日)

韓国・平和の旅⑧-ハルモニの話

■ムン・ピルギさんのお話

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 お父さんは、学校に行くのに反対していた。でも、お母さんが、秘密でお米を売って、学校に通わせてくれた。学校では、日本語がうまいと評価されていた。しかし、ある日、お父さんが、学校に行っていることに気づき、連れ戻され殴られた。家を飛び出し、おじさんの家にかくまってもらった。

 学校に行きたいと思っていた。15歳だった。

 そのとき、あそこに行けば、学校にいけるし、工場で働けると話しをする人がいて、そんなうまい話はないと思った。荷車に乗ったら説明すると言われ、乗るつもりはなかったのに、乗せられ、そのまま連れて行かれた。

 トラックに乗せられて、釜山の方に行った。美容室に連れて行かれて、「髪を切れ」と言われ、長い髪を切られて、泣いてしまった。お母さんにも何も話してないのに、いきなり連れてこられたことが辛く、ひどい。美容室の横の食堂で「メシを食え」と言われ、食べたくなかったので、もめていたら。「自分の言うことをよく聞けば、よくしてやるし、家にも返してやる」と言われた。連れてこられたことが辛くて、それも知り合いのおじさんが自分をだましたことが許せない。15歳の子どもが近所のおじさんにだまされて、日本軍に連れて行かれた。許せない思いが今でも残っている。

 釜山からソウル駅に行く汽車に乗せられた。乗りたくなかった。いつ家に帰れるのか不安だった。釜山から5人、ソウルで10人、さらに新義州で10人の25人で満州に連れて行かれた。満州では、二階建ての家に入れられ、たたみの部屋で、2人が横になったら、いっぱいの小さい部屋に入れられた。幼い女の人たちが、連れてこられていた。

 小泉首相は、賠償してないし、認めないし、許せない。

 軍人に抵抗したら、制裁のためにと、暖炉にあった“焼きごて”を、脇に押し付けられた。泣き叫んだ。3ヶ月たっても治らなかった。今でも傷が残っている。消毒も薬も何もない。焼酎で消毒していた。こんな恥ずかしい思いを・・・日本人は、そうゆうことをなぜ出来るのかと思った。自分の子や妹だったら、出来ないはずなのに。慰安所には、日本人女性はいなかった。

 今でも腰が痛い。何で腰が痛いかわかりますか?毎日軍人の相手をさせられた。倒れても、倒れても、今でも夢で軍人に、襲われる夢をみる。夢の中でも・・・・・軍人が毎日何十人と、小さい時から無理やりにやられたから。その時の話をすると、重く、苦しくなる。気持ちがつぶれるようになる。

 小泉は悪いやつだ。竹島は韓国の領土なのに、自分の領土だと言ってる。

 慰安所で、「痛い」とも恥ずかしいから言えなかった。何度も男性の相手をさせられて、すごく恥ずかしいのと、息が詰まる。慰安所のことを思い出すと息苦しい。

 日本は何もしてくれない。ハルモニたちが、一人一人亡くなっているのに、死んでいくことを待ち望んでいるように思う。自分たちの思いを、誰が聞きほぐし、きれいにしてくれるのか、まだわからない。腰を痛め、“焼きごて”を押し付けられ、悪いことすべて・・・・・。日本人の人と話しをすると、心がつぶれる。昔を思い出す。

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 解放されてから、故郷に帰るのも、大変だった。父は亡くなっていた。父は、娘が慰安婦にさせられたことを、すごく悔いて亡くなっていた。父は60で亡くなった。罪の意識で。

 解放をむかえてから、ソ連軍が来たが、日本軍はもう逃げていた。自分は姉さん格の人と一緒にいた。外の門を叩く音がして、出ていったら、ソ連軍がいて「お前たちの持ち物を全部出せ」と言われた。日本軍にもひどいことをされて、ソ連軍にまで、ひどいことをされたらと思い、逃げた。慰安所の地下に中国人の家族、おばあちゃんがいて、息子が働いていた。そのおばあちゃんに着物などをもらい、ソ連軍をやりすごして、ビクビクしながら。姉さん格の人が「帰る道を知っているから」と一緒に帰ることにした。

 いつもより、いっぱい話しているわ(笑)

 かくれるように逃げた。汽車がものすごく人が多くて。そのお姉さんが紹介してくれた男性が私の荷物を持ってくれた。南の方へ川を渡る、首まで水があるところを渡った。男性が「生きのびられたら、私が結婚してあげる」と。男性がソウル駅まで連れてきてくれて、おにぎりがすごくおいしかった。

 帰って来てから、私をだまして連れて行ったおじさんが、どうしても許せなくて会いに行ったが、会えなかった。だから、そのおじさんが、わかっていてだましたのかどうかはわからない。

 小泉が、教科書に、韓国の女性が連れて行かれたことを一つも書いていない。

 日本で教えてないと思う。

つづく・・・

2008年8月 9日 (土)

韓国・平和の旅⑦-3日目

2006年3月28日(火)

8:00 ロビー集合 近くのカフェで朝食
9:00 ナヌムの家に向け出発 地下鉄を乗り継ぎ江邊(カンビョン)、市内バスに乗り1時間
11:00 ナヌムの家到着、ハルモニの証言を聞く
 一緒に昼食をいただく 「慰安婦」の歴史館を一兵さんの案内で見学。ビデオを見る。

夕食は、明洞(ミョンドン)で、有名な餃子を食べる

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■ナヌムの家へ

 8:00に集合して、近くのカフェで、なぜか?サンドイッチとコーヒーの朝食。

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 地下鉄に乗り、江邉(カンビョン)へ。ここから、市内バスに乗り1時間。“ナヌムの家”の行き方は、詳しくバスの番号も書いてあったので、無事に乗車。でも、降りる場所が、わからず、結局乗り過ごし、次のバス停で下車。そこからタクシーで20分ぐらい。

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11:00 ハルモニたちが住む「ナヌムの家」に到着。

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 まえに、2つのグループが「歴史館」を見学していて、途中から合流させてもらった。その後、証言を聞き、途中ハルモニたちと、昼食を食べ、また続きを聞いた。

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 そして、もう一度、ボランティアをしている一兵さんが、「歴史館」をはじめから案内してくれた。

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 お話して下さったのは、ムン・ピルギさん(『「慰安婦」と出会った女子大生たち』・新日本出版社の証言にのっている方・詳しくはこちらを)

つづく・・・

2008年8月 8日 (金)

韓国・平和の旅⑥-独立記念館

■独立記念館

 バスにゆられること30分。独立記念館に到着。が、どうも様子がおかしい。なんと休館日だった。

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 たしかにガイドブックには「休みなし」と書いてあった。が、後でもう一冊をよく見たら、「月曜休み」と書いてあった。いろんな意味でショック・・・

 でも、門番をしていたおじさんが、公園の中には入れてくれた。展示館は見ることは、できなかったが、公園の中だけでも入れたのは良かった。

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*独立記念館は
 121万坪の広大な敷地に立つ。1982年国民の強い希望によって独立記念館建立の募金運動で1987年8月15日の光復節(独立記念日)に開館した。有史以来、半島国家として中国や日本からの侵攻を受けてきた韓民族の困難克服と国家発展の歴史に関する資料を収集・展示し、民族精神と国家意識を後世に伝えることを目的とした巨大な施設だ。

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 第3展示館は、日帝侵略館。植民地時代の日本の侵略行為が等身大のジオラマで再現されているらしいが、見ることは出来なかった。

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 一番の印象的だったのは、数百本の韓国国旗が、メインストリートの両側で、ばたばたとはためいていたこと。

 はじめ、なぜ、こんなにも国旗が!?と思ったが、公園の中を歩いたり、一番奥にある、「追慕の場」の周りにある石の壁に彫られた、鎖や、戦いのシーンとともに、国旗を高々と掲げている壁画をみながら、ふと思った。

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 もしこれと同じ事を日本が、日の丸でやったら、「軍国主義の復活!」をイメージさせるだろう。アジアから批判され、なによりも日本人である私自身が危険性を感じるだろう。
しかし、ここではためいている、何百本もの韓国の国旗は、たぶん人々の誇りなのだろうと思った。

 もう、どこの国からも、われわれ民族は支配されない!という強い決意と誇り、そして怒りが込められているような気がしてならなかった。

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 それは、広大な敷地の中にある、この記念館が国民の募金によって建てられたこと自体にも現れているように思った。

 正直、そのことに気づいてから、私はバスの中でも、地下鉄の中でも、食事をしていても、日本語を話すことに、躊躇している自分がいた。

 独立記念館を回り、また2時間近くかけて、ソウルまで戻った。

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 3・1独立運動を開始した、タプコル公園によってみたが、これまた18:00までで、着いた時には、すでに門がしまっていた。

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 この日は、本当にタイミングが悪く、移動距離も多かったせいもあり、とにかくつかれた。

 しかし・・・・・・

■シンチョンの焼肉屋

 夕食は気合を入れて、ガイドのチャンさんに教えてもらった新村(シンチョン)の焼肉屋へ。

 駅で、またキョロキョロしていると、少し酔っ払ったおじさんが、英語で話しかけてきた。丁寧に、ここで乗り換えろと路線図を出して教えてくれたのだが、行き先が違うところを指している。どうも「シンチョーン」だったらしく。韓国語の発音は難しいと改めて感じた。このおじさんは、よく日本の幕張に来ていると話していた。

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 シンチョンに降りてからも、チャンさんのメモを何人かの人に見せながら聞くも、「わからない」と首を傾けられ、けっこうお金もちそうな、若いカップル?夫婦?に話しかけたら、わざわざお店に電話をし、地図を書き、英語で説明してくれた。

 しかし・・・どうも見当たらず、ウロウロしていたら、おばさんに「焼肉ですか?うちは有名な焼肉屋ですよ。おいしいですよ」(日本語)と笑顔で言われ、このお店が、目的としていたお店なのかどうか、けっきょくよくわからないまま、日本語が通じるという安心感で入った。たぶん、安くておいしかったんだろうと思う。

 骨付きのカルビ、豚のカルビ、冷麺も食べて、一人25000w(約3000円ちょっと)だから、まぁよかったのかな。

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つづく・・・

2008年8月 7日 (木)

韓国・平和の旅⑤-サバイバル

■まさにサバイバル

 チャンさんは、他のお客さんのガイドのため途中下車。

 私たちは、チャンさんに言われたとおり、バスの運転手さんの合図でバスを降りた。

 しかし、いったいどこに行ったらいいのかわからない。バスを降りてから、高速バスに乗るまで何人の韓国の人と関わっただろう。

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 こっちが道を聞きたいのに、道を訪ねられたり、「こっちだよ」って感じでおばあさんが案内してくれたり、とにかくガイドブックを開きながら、必死でウロウロした。「バス乗り場ですか?」と日本語で返ってきた時には、ビックリ!したやら、安心したやら。やっとの思いで、ターミナルに到着。

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 次は、切符。ここで、困ったのが、数字。金額を言われても、いくらだかわからない。

 食事のときも、指で数を教えてもらった。

 12:00ソウル発の天安行き高速バスに乗り、1時間。

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 今度は市内バスに乗るのだか、次から次へと来るバスの、どれに乗っていいのやら???

 まずは、切符売り場で「独立記念館」と書いたメモを見せると、おばさんは、とっても驚いた顔をし、ニコニコと笑顔になった。でも、けっきょく色々話しかけられたけど、まったくわからず、930Wの切符を買い「カムサハムニダ」とお礼を言った。おばさんは、さらにビックリした顔をしていた。

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 でも、どのバスに乗ったらいいのか、いまだ不明。別の切符売り場で、今度はおじさんにメモを見せた。350~499とバスの路線の番号を書いてくれたので、そのバスに乗ったら、独立記念館までは、1030Wらしく、100Wたりなかった。

 つまり、おばさんが一生懸命言っていたのは、金額のことだったようだ。

■日本語を話せるということ

 バスの中で、一緒に行った学生のとなりに座ったおばあさんが、彼に話しかけていた。頭をひねっていた学生に、「日本人?」と日本語が返ってきた。これまた衝撃だった。なぜ、このおばあさんが日本語を話せるのか。それは・・・と考えると、そのこと自体がある意味衝撃であった。一緒にいた、たぶんお孫さんはすごく怪訝な顔をしていた。なんとも気まずかった。

 そのおばあさんの旦那さんは日本に来ていたらしく、おじいさんを呼び、話しをしようとした時、バスは独立記念館に到着した。

つづく・・・

2008年8月 6日 (水)

韓国・平和の旅④-2日目

2006年3月27日(月)

7:20頃 朝からハプニング、学生が一人胃痛で倒れる。
急遽、保険会社、ガイドのチャンさんと連絡をとり、近くの病院へ

10:30 一人学生をホテルに残し、3人で独立記念館をめざす
12:00 高速バスターミナル→天安(チョナン)
14:00頃独立記念館に到着・・・・が、様子がおかしい
16:10 天安→ソウルへ
      タプコル公園に到着するも・・・・・またまた

一度ホテルに戻り、気合を入れなおして、焼肉を食べに新村(シンチョン)へ

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■サバイバルな一日

 この日は、朝からまったく予定通りにいかなかった。そのおかげで?思いもよらない経験や、韓国の人々にたくさんお世話になった日でもあった。

■韓国で病院に行く

7:20頃、「胃が痛い」と一人ダウン。
みんな同じものを食べていて、なぜ、彼女だけが倒れたのか?

 その原因はたぶん「水」。思い起こせば・・・彼女は夕飯の時、お店で出された水を飲んでいた。しかし、他の3人は、ほとんど飲んでいない。その理由は、チャンさんがバスの中で「ソウルの水道水は飲まない方が良い」と話していたのを聞いていた。しかし、その時、彼女は寝ていたのである。あぁ~もっと早く気づくべきだったと思ったが、すでに遅い。

 「困ったときは、いつでも電話下さい」と教えてもらったチャンさんの携帯にかけると、他の仕事を蹴ってホテルに来てくれ、歩いて5分ぐらいの近くの病院(ビルの3階にある内科で、こぎれいな歯医者って印象)に連れて行ってくれた。

010・・・ビルの3Fに病院

 彼女は、診察を受け、おしりに注射を打たれたらしい。韓国では、おしりに注射するのが常識。薬をもらって、彼女はホテルへもどり、残りの3人は、チャンさんの案内で、市内バスに乗り、ソウル高速バスターミナルへ向った。

つづく・・・

2008年8月 5日 (火)

韓国・平和の旅③

■チャンさんとの出会い

 無事ガイドのチャンさんに出会うことができた。彼女は、32歳の素敵な女性だった。「まだ、日本語を勉強中なので、変な言葉づかいしたら、おっしゃって下さいね」と流暢な日本語を話していた。

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 ソウルに向うバスの中で、チャンさんから「みなさんはどこに行くんですか?」と質問された。「独立記念館と、従軍慰安婦の“ナヌムの家”に行きます」と話すと、彼女は非常に驚いていた。「日本人は、だいたい韓国に観光とエステで来ます。歴史のことについて学びに来る人に会ったのは始めてです」と。

 それから、「どうして、そういうことに興味を持ったのですか?」「ガイドブックに正しく書いてあるか、私が見てあげます」と、日本人がどう見られているのか、歴史についての日本の見解に対する疑いなどなど、はじめから考えさせられた。

 「慰安婦」については、事前学習していた、神戸女子大学の石川ゼミの本を見せたら、「ちょっと読ませて下さい」と、すごく興味を持っていたので、プレゼントした。

■韓国で初の食事

 ホテルに到着したのは、8時過ぎであたりは暗くなっていた。機内食しか食べていない私たちは、さすがにお腹がすき、ホテルから少し歩いた小さな食堂に入った。

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 メニューに何が書いてあるのか、まったく分からない。日本語も、英語も、私たちが話す韓国語も通じない。けっきょく、ガイドブックを指差しならが「おすすめはなんですか?」と。
 何が出てくるのかわからない、不安と期待がいりまじったドキドキ感は、はじめてだ。
 次々出てくる、キムチやチジミ、青菜の炒め物みたいな物を食べていた。出てきたのは「プルコギ」という、有名なスープ料理らしい。これは、なかなかおいしかった。

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つづく・・・

2008年8月 4日 (月)

韓国・平和の旅②-出発

■いざ、韓国へ 3泊4日の日程

 韓国に行くのは初めての4人が、空港とホテルの送迎以外はガイドなしのフリープランで行くのは、かなり無謀のような気もしたが、逆にそれがいろんな意味で良かった。言葉が通じない、道もわからないからこそ、韓国の人々の暖かさに触れることが出来たからである。

001・・・いよいよ出発!

003

2006年3月26日(日)出発

11:00に成田空港、第二ターミナルに集合。
13:00に搭乗し
13:30成田を離陸。機内食を食べ。
16:00には、ソウルに到着。

入国審査に時間がかかり、荷物を受け取り、出口を出ると。旅行会社のガイドのチャンさんが迎えてくれ、バスに乗り込み、説明を受ける。

19:00頃、免税店に1ヶ所寄り
20:00頃、ホテルに到着。

002・・・機内食

■韓国最大の仁川(インチョン)空港に到着。

 出発前に旅行会社の方から、何度か念を押されたことがある。「仁川空港の出口はいくつもあり、飛行機によって出口が決まっています。入国すると目の前に電光掲示板があるので、そこで番号を確認して必ずその出口から出て下さい。そうでないと、ガイドに会うことができませんので」と。

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 入国して、はじめからドキドキ。表示が入れ替わるため、自分たちが乗ってきた飛行機の便名を探すのが大変だった。

つづく・・・

2008年8月 3日 (日)

韓国・平和の旅①

■韓国へ行こう!

 2006年3月26日(日)~29日(水)で、韓国に行ってきた。そもそも、なぜ、韓国に行こうと思ったのか、その第1の理由は、「今しかない」の言葉につきる。

 大学生の時から参加している「原水爆禁止世界大会」(広島、長崎で1955年から開催)で、何度も「私たちは、被爆者から直接話しを聞ける最後の世代」だと言われてきた。そして、被爆60年の昨年、私の中に「被爆者に70年はない」「2030年には、被爆者はいなくなる」という言葉が重く残った。

Photo

 広島から帰ってきた後の「ピース☆バス☆チバの報告会」で、参加した青年たちの発言を聞きながら、改めて「10年後には、被爆者と共にたたかう原水爆禁止運動ではなくなる。そのとき、私たちには新しい運動が求められる。被爆者がいなくなった後、私たちが語り継がなくてはいけない。でも、直接体験した被爆者の言葉の重み、理屈ではない説得力のある言葉は、何者にも変えることはできない。だとしたら、今、私たちは何をしなければいけないのか」そんなことを考えていた。

 その「今しかない」は、被爆者だけではなく、戦争体験者全員に言えること。憲法9条を守る運動をしていくうえでも、結局のところ、生きている私たち一人一人が、どれだけバーチャルではなく、リアルに戦争の事実を記憶するかに、かかっているのではないかと思った。「二度と誰にもこんな思いはさせたくない」と強烈に発せられる、被爆者、戦争体験者の言葉を、どれだけ自分の言葉にできるのかに、かかっている。それも、被爆という被害者としての話しだけではなく、侵略者、加害者としての話しも含めて・・・

 そんな思いから、沖縄と韓国に行きたい!沖縄戦をたたかった人、ひめゆり学徒、日本軍「慰安婦」などなど、「今しかない」、直接話しを聞いておきたい、聞いておかなければならない人の話しがある。その思いが、私を韓国に向わせた原動力だった。

つづく・・・

2008年8月 2日 (土)

明日からの予告

 明日3日~11日まで、「特別党学校」というのが、開催され、私も参加してきます。

 いま、日本共産党は、「綱領を語り合う会」を、さまざまな場で取り組んでいますが、今回の「特別党学校」の講義は、まさに、その「日本共産党綱領」です。なかなか、まとまって講義を受けたり、学習するということがないので、じっくり学んできたいと思います。

 問題は、明日からこのブログをどうするか、ということです。まとまった期間ブログを更新しないのは、7月の経験からも避けたいなと考えました。

 そこで、2年前(2006年)韓国に行き、独立記念館、「慰安婦」の方が住む「ナヌムの家」、西大門刑務所歴史館などを訪れたことをまとめた冊子『韓国・平和の旅』を、12回連載で更新していきたいと思います。

20080802213757_2・・・乞うご期待happy01

8月のはじまり

 8月が始まりました。暑いですねthink

 one昨日(1日)は、三山支部の方と地域訪問をしました。物価の高騰、後期高齢者医療制度、負担増など、様々な話しになりました。

 「40年の付き合いになる、眼科の先生が、すごくよくしてくれて、私の性格もよく知ってくれていて安心です。ずーと病院に行かないと『どうしたの?』と、心配して電話してくれるんですよ」と。

 なるほどsign03一人暮らしのお年寄りの方が増えている中で、地域に密着した地域医療は、単に病気を治療するだけではなく、大きな役割を発揮していると痛感しました。この間、政府は社会保障費を毎年2200億円抑制してきています。地域の開業医は、経営がなりたたず、やめていく。「近くの病院がなくなって、困っている」という話を、夏見でも聞きました。地域医療を崩壊させる=街全体を殺すことではないかと思いました。

 two今日(2日)は、こだま正直佐倉市議、志津南支部のみなさんと6人で2組にわかれて、対話、訪問をしました。内閣改造の顔ぶれを見て、「変わらないねぇ~」「支持率なんて上がらないでしょう」「誰がやっても同じでしょう」などの話が・・・対話できた、ほとんどの方が、後期高齢者医療制度廃止の署名に協力してくれました。

 志津南支部のみなさんは、すごく元気で、よく笑う!!もぉホント楽しかったです。なんと明日は、後援会で地引網に行くそうです。「行く?」と聞かれましたが、残念・・・行けないのです。

 その後、私は、船橋市に戻り、日本共産党の船橋市後援会の会議に参加し、挨拶しました。ニュース発行、今後の企画などについて話し合われました。

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