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2008年8月16日 (土)

斉藤和子はどんな人

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●日本共産党に入党したきっかけは?

 私は船橋の農家に生まれ育ちました。両親が党員だったこともあり、日本共産党は身近でした。

 18才になってちょうど2ヶ月目に国民大集会があり、そこで誘われました。でも、断るつもりでした。党員になるイメージがもてなかったし、いま話題になっている『蟹工船』の作者、小林多喜二のような生き方は出来ないと思っていました。

●「小林多喜二」ですか?

 民青同盟の高校生班で「小林多喜二」の映画の上映会を、地域の方と一緒にとりくみました。戦争反対、主権在民を主張し、小説を書いただけで、時の政府に逮捕される。さらに、宙吊りにされアイスピックで太ももをさされる拷問シーンなどが、リアルに描かれていました。それでも、多喜二は信念を貫き虐殺されます。強烈でした。

 でも、けっきょく、日本共産党の主張していることは、間違っているとは思っていなかったし…で、入党しました。

●「生き方」を考えたの?

 やはり映画「小林多喜二」は、真剣に自分がこの社会の中で、どう生きるのかを考えるきっかけになりました。上映会後の感想交流で「いまは、戦争反対と言っても殺されることはない。でも、身近な問題として、目の前でいじめられている子がいた時に、見て見ぬふりをするのか?それとも、もしかしたら自分がいじめの標的になるかもしれない、それでも“やめろ”と言える人間になるのか…」と話しました。

 実は、最近母とその話をしたら、高校生の時、私は空手だか合気道だかを習いたいと言ったそうです。理由は、クラスの子をいじめてる不良をやっつけたいからと。それに対して両親は「暴力で返したらなんにもならない。力のないお前が言うことに意味があるんだ」と。いま考えても、すごい返答だと思います。

●両親は入党したことを何て?

 それが、なぜか、党員である両親には入党したことを言えなかったんです。たぶん、自信がなかったんでしょうね。いろんな意味で…。

●民青同盟では、どんな活動をしたの?

 キャンプ(↓写真)に行ったり、被爆者の話を聞いたり、勉強したり。印象に残っているのは、焼肉を食べながら、「労働と労働力の違い」について一生懸命、例え話をするんだけど、すればするほど混乱する。でも、すごく楽しかったことを覚えています。

S_3

 あとは、班会に大学生が来てくれて「科学的社会主義のものの見方、考え方」を学習しました。唯物論とか、弁証法とか、「物事は、必ず原因がある。表面的にとらえるのではなく、それが現れる原因や背景をみることが大事」「どんなものでも、変化し発展する。個々ばらばらではなく、関連しあっている」。これは衝撃でした。

●「ものの見方、考え方」に衝撃!?

 薬園台高校の園芸科は、茶髪や短ラン、ぶかぶかのズボンをはく、いわゆる不良がいました。私は「校則違反するなら、自分たちで校則を変えれば良いじゃないか」と、批判的に彼らを見ていました。でも、この「ものの見方、考え方」を学んで、「私は、なんて人を表面的に見ていたんだ」と気づかされました。

S_2・・・農業実習中

 特に園芸科は、教室の勉強だけではなく、一緒に農作業をします。肥料や、重たい物を運ぼうと思えば、いわゆる不良くんも「もってやるよ」と手を差し伸べてくれる。暑い中、一緒に収穫したトマトを「おいしいよね」と言いながら食べ、歓びを共有する。そういう人間の内面に触れる機会が多かったから、余計に「なんて大事なことを見落としていたんだ」と、気づかされたんだと思います。

●どんな親子関係?

 よくわが家は小さい頃から夜、討論会になりました。「ここに一つの湯飲みがある。上から見れば○。でも、横からみたら長方形」とか、「3本煙突が並んでいても、角度によっては1本しか見えない」とか、目線や見方によって物事はまったくかわる。いろんな角度から見ることが大事なんだって。つまり、そのたわいもないと思っていた会話が、実はすごく大事で、その理論的な裏づけを、民青で学んだ感じでした。

●印象的なことは?

 戦後50年の大学生の時、「へいわのわ」という全国学生平和企画の実行委員長をやりました。それを東京革新懇の企画で報告しました。その前日、原稿を父に見せたら「なんで、こんなに上から教えてやろうみたいな、偉そうな物言いをするんだ」と言われ、とにかく、悔しくて、徹夜で直しました。
 両親は「自分たちの“子ども”ではなく、一人の人間として接しよう」と、よく話し合っていたそうです。だから、「なんで」「どうして」「どうしたい?」と、よく意志を確認されました。まぁ、とにかくよく話す家族だと思います。

●大学では、どんなことを?

 農獣医と言うと「獣医さんなの?」とよく聞かれますが、私は、“農”学の方で食品経済学科です。

 卒論では「惣菜産業における野菜の原料調達」を調べ、特にコンビニの弁当などは「必要な時に必要な量を、使い勝手の良い食材で」が求められ、結局、安価な海外からの冷凍野菜が多く使われていました。まとめで、24時間のコンビニの惣菜など、便利になった背景で、労働強化がされ、家族で食卓を囲むことが奪われ、「本当の豊かさとは、何か」が問われている。と書いたら、教授から、論理が飛躍していると言われましたが、ぶじ卒業することができました。

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●大学卒業後は?

 県立清水高校で、食品化学科の常勤講師として2年勤めました。そば打ちしたり、豆腐作ったり、生徒と一緒になって開墾したり、大変でしたけど、楽しかったです。

 それだけに、教員採用が一人枠で3度不合格。一方で、日本共産党の職員として働かないかと言われていたので、とにかく迷いました。

●党職員になぜなろうと?

 決断したきっかけは、その当時、西部地区委員長だった浦さんの言葉でした。「学ぶとは胸に誠実を刻むこと、教えるとは共に希望を語ること」(ルイ・アラゴン)。

 確かに、私が接してきた生徒たちは、どちらかといえば勉強が苦手で、漢字も読めない、かけ算もできない子たちがいました。小学校低学年で勉強について行けなくなると、じっと耐え時が過ぎるのを待つしかない。

 「わからないのも個性」とか、「3割のエリートと、モノを言わない労働者」と言った、教育行政のもとで、傷つけられてきた生徒たちと格闘しただけに、「共に学びあい、希望を語りあえる教育にしたい」という思いはありました。そのためには、競争をあおり、一人ひとりを大事にしない教育行政、政治を変えるしかない、と。

●党職員になってどう?

 辞めたいと何度も思いました。それでも、続いてきたのは、仲間たちのおかげだと思います。特に、私にとって「ピース☆バス☆チバ」の活動は、大きかったです。

 被爆者の方の話を聞く。広島、長崎にバスで行く。資料館を見学し、世界大会に参加する。行きと帰りのバスの空気は変わります。一体感と、「一人ひとりは微力だけど、けっして無力じゃない」というエネルギーが、みんなの感想からほとばしります。それが、私に力をくれました。

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●平和が原点ですか?

 やはり、被爆者の方が、さまざまな差別や偏見を受けながらも、ケロイドの跡を見せ、自らの思い出したくもない体験を語り、核廃絶を訴えてきた。その一人ひとりの声と行動があったからこそ、いま核兵器廃絶が世界の流れに広がってきた。そして、6年前、私たちが津田沼駅で、いきなり折り紙を差し出し「あなたの平和の思いを折り鶴へ」と呼びかけた「折り鶴宣伝」は、いま全国に広がり発展しています。たぶん、これらの経験があって「微力だからこそ、勇気をもって声をあげることが大事なんだ」と、候補者を決意できたんだと思います。

●決意を一言

 候補者になって8ヶ月、試行錯誤の日々ですが、本当に多くの方に励まされ、支えてもらっています。いま多くの方が、何か新しい変化を求めているように感じます。その期待に応えられるように、がんばりたいです。そして、絶対に忘れたくないのは、政治を語るとき、常にそこに人がいることを感じられるようにしたいです。

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